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ひとり温泉旅から湯治宿にハマっていった私の経緯は、「湯治女子と言っているワケ」でも書いた通りですが、湯治宿を検索するのも一苦労でした。というのも、湯治宿だけが掲載されたサイトがあるわけでもなく、団体を受け付けず小さなお宿の経営をされている湯治宿ほどその宿のサイトさえないこともしばしば。湯治宿・◯◯県、とリサーチして、なんとか行き着いたお宿の情報を総合して想像し、うん、行ってみよう、いややめよう、なんて考えたり、古本屋で買ってきた雑誌や本から、昔からあるお宿であることを確認したりもしました。泉質やお部屋の感じなどなど・・・。

湯治宿といっても、やはり現代的にリノベーションされているお宿や、古いまんま空調もなければ何もない、みたいなところまで様々です。冬、東北に行きたいけども、さすがに空調がないところは夏にしようかなと思ったり、人里離れた山奥にぽつんとあるところはアクセスを調べたり、数日滞在できるほどの食料調達ができるのかな、なんてことも考えたりしなければなりませんでした。でもそのアレンジが、旅を考えるにあたりとっても楽しかったのです笑

こんなに楽しい自由な旅なのに、どうして廃れてしまっているのだろう。どうして古臭い感じなんだろう。ニーズがないのかな。リノベーションもできないほど経営難なのかな。そんなことも実際に湯治宿に滞在していると思うこともありました。確かに、お客さんは少ないのかもなぁと感じることも。

そしてもうひとつ気になったのは、体の本気湯治をされている人がいること。私のように健康な人間が行ってもいいのかな・・・?でもいざ到着すると、そんなことはどうでもいいというのか、体の治療をされていようがいまいが、本当にナチュラルで人間同士のコミュニケーションが当たり前のようにあるし、裸同士になるわけだからお互いのことは平等でそれぞれ抱えているその人の体のことも、私が抱えている仕事の疲れも、ともに「よく頑張っているよね」とお互い褒めあったり励ましあったりすることもありました。健康、ってなんなんだろう。心も健やかでないと健康と言えないし、体も心とつながっている。体に何か不調があるのも生活や習慣や心も関わっている。そんなことも感じるようになりました。

そんなわけで、私のような元気な人間も湯治宿を利用できるんだ、ということがわかり、ますます好きになっていくのでした。

そして、湯治宿には敢えてのサービスがありません。布団のあげおろしも自前。だから、もうちょっと寝たかったのに朝、勝手に布団がなくなっていたりもしないし、コンコンといつ来られるかわからないドキドキ感もない。つまり余計な干渉がないのです。逆にコミュニケーションが必要でもある。お願いしたいことはお願いする。お湯がなくなったのでください、とか、毛布を一枚足したいのですが、とか。そして、サービスがないから工夫も生まれてくるのです。荷物は自分で運ぶから、小さいカバンを2つにして、こちらがおでかけ用、こちらは置いておく用にしようっと、なんてことも工夫です。

体の療養している方もいるのだから騒がずわきまえる、誰かが眠っているかもしれないと想像して歩く、誰かがまた使うものだからときれいにコップを洗う、次の人が気持ちよく使えるようにとスリッパを揃える、みたいな心配りや配慮も自然と出てきます。また、湯治宿には自炊室もたいてい備えられています。心身養生のために、自分に必要な栄養は自分であつらえる、というものです。自炊の基本に戻れる感じもありました。また元気な自分は、カップラーメンだって食べたっていいわけで、簡単に済ませたいときはそうしたし、おでかけして外食したり、味噌汁だけ買って惣菜を自分でつくる、買うなども自由です。単にお茶やコーヒーをその土地の水で淹れて飲む、そんなこともなんだか儀式のようだったし、コーヒーの湯気がふわふわと舞う寒い地で暖炉を囲みながらの読書なんてさいっこうの時間でした。

こうした数々の湯治宿での経験で、確信しました。これは自由すぎる旅だ!と。温泉のクオリティは湯治のためなので抜群でなくてはなりません。その抜群の温泉をいくらでも堪能できて、「旅感」よりも「くらし感」が旅館やホテルよりも倍増する。非日常ではなくて、異なる日常を経験しているような感覚。でもいつもと違う場所で、違う勝手がある不思議。生活の延長のような、いや旅のような、いや、なんだろう、これは。

このスタイルは、本当に気持ちがいい。だからこそ湯治をもっともっとひとびとに伝えたい。じゃあ、古臭いと思われている「湯治」を再定義したらどうだろう。そうぼんやりと思うようになりました。

湯治を別の言葉で言い換えてみようとか、別の言葉にしてしまおうかとかあれこれ本当に悩みました。どうしたら伝えられるのかな、どうしたらわかってもらえるのかな。

温泉に幾たびも浸かり、考え、また本業に戻り、また湯治場へ繰り出し、浸かり、考え・・・悩みは2年にも及びました。が、結局、生み出せずにいました。湯治という言葉に叶わなかったのです、湯で治すという素晴らしいことに。

そこで、私はこう思いました。湯治は心身を治すための温泉療養、という説明ではなく、現代に合わせた解説をすればいいのではないだろうか。そして、私が感じた気持ち良さやこのライフスタイルについてのシンプルな解説を編み出す方がいいのではないだろうか。

そして半年ほどうんうんうなって、絞り出した結論が、このサイトでも定義している「自分のからだとこころを見つめ直す静かな時間」だったのです。体の療養ではない湯治の側面もあることや、そもそも長期療養=湯治とされてしまうと、なかなかそんな休み方のできない現在の日本では受け入れられないものであると感じたからです。

滞在が長期か短期かそれは私には関係ありません。自分というものは一生ドライブしていかなくてはいけない乗り物です。こころもからだもつながっている。それをどう扱うか、扱い直すか、それを温泉を活用してリセットしてみてまた頑張る力をもらえることが湯治でいいじゃないか。そんなふうに私は考えたのです。・・・実際には、温泉が即効性のあるものではなく、東洋医学的にじわじわと効いてくるものなので、湯治には1週間ほどかけたほうがいいのですが。

「自分のからだとこころを見つめ直す静かな時間」を、ぜひ体験しに鉄輪にいらしてください。できれば1週間ほどのんびりと滞在してみてはいかがでしょうか。きっとからだもこころも変わります。

(菅野)

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